内海唯花は予定通りに姉の家へ行った。家に着くと、姉はもうとっくに起きていて台所で忙しなく家事をしていた。「お姉ちゃん」「唯花ちゃん、あがって、あがって」台所から出てきた佐々木唯月は妹の顔を見て、嬉しそうに「もう食べたの?お姉ちゃん今素麺作ってるの、一緒に食べる?」と聞いた。「ううん、いいよ、もう食べたから。そういえば、朝食買ってきたよ、素麺はもう鍋に入れたの?まだだったら、陽ちゃんと一緒にこれを食べて」「まだよ、ちょうどよかったわ。実はね、昨日陽が熱出しちゃって、一晩中ずっと看病してやってて全然眠れなかったの。だから今朝起きるのが遅くなって、お義兄さんも外で朝を食べたのよ。毎日家にいて何もしてないくせに、子育てだけでぐったりして、朝ごはんすら作ってくれないって彼に散々言われたわ」佐々木唯月は少し悔しそうにしていた。それを聞いた内海唯花は腹を立てて言った。「陽ちゃんどうして熱が出たの?今熱がなくても、後で病院に連れて行ってあげてね。そうしないとまた拗らせて繰り返すわよ。義兄さんも義兄さんで、子供が病気なのに、全く手伝ってくれないうえに、お姉ちゃんを叱ったりするなんて一体どういうことよ」 「お姉ちゃん、私今もうこの家から出て行ったのよ。義兄さんはまだ生活費の半分をお姉ちゃんに押し付けてる?」 ソファに腰をかけた佐々木唯月は妹が持ってきたうどんを出し、食べながら言った。「後で陽をお医者さんのところに連れていってくるわ。生活費なら、やっぱり私と半々で負担してるよ。彼は私が毎日ただお金を使っているだけで、どうやってお金を稼ぐかも、彼がどれだけプレッシャーを受けているのかも知らないって言うの。まあ、私もこの家の一員である以上、少しくらい負担しないとね」 「きっと彼の姉さんが言ったことよ。あの義姉さんはお嫁に行っても、まだ実家のことばかり気にしているの。以前義兄さんは私によくしてくれてたのに、あの義姉さんのせいで......」実は佐々木唯月は会社を辞める前にもう財務部長までにのぼっていて、かなりの給料をもらえていたが、愛のため、結婚のために色々なものを犠牲にしてここまで来たのだ。それなのに、最後に得られたのは夫の家族からの悪口だけだった。 彼女がお金を使っても、全部この家ために使っていることだ。久しぶりに自分の服を買うのにも、妹
「行こう」結城理仁は心の中で内海唯花に小言を呟いたが、直接彼女に何か言ったりしたりはしなかった。内海唯花は彼の妻だが、名義上だけだ。お互いに見知らぬ人と変わらなかった。運転手は何も言えず、また車を出した。一方、内海唯花は夫の高級車にぶつかりそうになったことを全く知らず、電動バイクに乗ってまっすぐ店に戻った。牧野明凛の家は近くにあるので、彼女はいつも内海唯花より先に店に着いていた。「唯花」牧野明凛は店の準備が終わってから、買ってきた朝食を食べていた。親友が来たのを見て、微笑んで尋ねた。「朝もう食べたの」「食べたよ」牧野明凛は頷き、また自分の朝食を食べ始めた。「そういえば、おいしいお菓子を持ってきたよ、食べてみてね」牧野明凛は袋をレジの上に置き、親友に言った。電動バイクの鍵もレジに置くと、内海唯花は椅子に腰をかけ、遠慮なくその袋を取りながら言った。「デザートなら何でも美味しいと思うよ。あのね、明凛、聞いて。ここに来る途中で、ロールスロイスを見かけたよ」 牧野明凛はまた頷いた。「そう?東京でロールスロイスを見かけるのは別に大したことじゃないけど、珍しいね。乗っている人を見た?小説によくあるでしょ、イケメンの社長様、しかも未婚なんだ。そのような人じゃない?」内海唯花はただ黙って彼女を見つめた。にやにやと牧野明凛が笑った。「ただの好奇心だよ。小説の中には若くてハンサムなお金持ち社長ばかりなのに、どうして私たちは出会えないわけ?」「小説ってそもそも皆の嗜好に合わせて作られたものでしょ。どこにでもいるフリーターの生活を書いたら誰が読むのよ、まったく。社長じゃなくても、せめてさまざまな分野のエリートの物語じゃないとね」それを聞いた牧野明凛はまた笑いだした。「そうだ。唯花、今晩あいてる?」「私は毎日店から家まで行ったり来たりする生活をしてるだけだから暇だよ、何?」内海唯花の生活はいたってシンプルだった。店のこと以外は、姉の子供の世話だけだった。「今晩パーティーがあるんだ。つまり上流階級の宴会ってやつなんだけど、一応席を取ったから、一緒に見に行きましょ!」内海唯花は本能的に拒絶した。「私のいる世界と全く違うから、あんまり行きたくない」 確かに月収は悪くないのだが、上流階級の世界とは次元が違うので、全
パーティーが開かれた場所はスカイロイヤルホテル東京だった。普段なら内海唯花とは縁のない所だった。スカイロイヤルホテル東京は市内の最高級ホテルの一つとして、七つ星ホテルと言われているが、果たして本当にそうなのかどうか、内海唯花は知らなかったし、個人的に興味もなかった。内海唯花たちより先にホテルに着いた牧野のおばさんは知り合いの奥さんたちと挨拶を交わした後、息子と娘を先にホテルに入らせて、玄関で姪っ子が来るのを待っていた。姪っ子を迎えに行かせた車が他の車の後ろについてゆっくり到着したのを見て、彼女の顔に笑みが浮かんだ。すると、牧野明凛は海内唯花を連れておばさんの前にやってきた。「おばさん」「おばさん、こんばんは」海内唯花は親友と一緒に挨拶をした。 姪っ子が内海唯花を連れて来ることを知った牧野のおばさんは、少し気になっていた。実際に彼女に会ったことがあるからこそ、この両親を失った娘が自分の姪っ子より美人であることを認めなければならなかった。いたって普通の家庭出身なのに、顔立ちと仕草にはどこかお嬢様の気品が漂っていた。彼女と一緒だと、姪っ子の美しさが霞んでしまうのではないかと心配していたが、もう結婚していると義姉から聞いて、一安心した。目の前の内海唯花をよく見ると、彼女はドレスすら着ていなかった。普段着に薄化粧しているだけで、高いアクセサリーもつけていなかった。彼女のその生まれつきの美しさもおしゃれした姪っ子の前では覆い隠されてしまい、牧野のおばさんはやっと安心して頷いた。内海唯花は本当によく気の利く、物分りがいい娘だと思った。「よく来たね。私が連れて行ってあげるわ。明凛、招待状を出しておいてね。中に入るのに必要なんだ。チェックしないと」牧野明凛は慌てて自分の招待状を出した。「中に入ったら言葉には気をつけるのよ。ちゃんと見てちゃんと聞くの。頃合いを見計らって紹介してあげるわ。唯花ちゃん、あなたは明凛より大人だから、彼女が何かやらかさないように見張ってちょうだいね。お願いするわよ。スカイロイヤルホテル東京はここの社長が管理しているホテルの中の一つなの。その家のお坊ちゃんたちも今夜のパーティーに顔を出すかもしれないわ」牧野のおばさんはこっそりと姪っ子に言った。「明凛、もしあなたがここの御曹司のご機嫌を取ることができたら、牧
結城理仁は大勢の人に囲まれて入ってきて、隅っこに隠れていた新妻がいることに全く気付かなかった。内海唯花も同様、人垣をかき分けて自分の夫を見るすべもなかった。 暫く背伸びして眺めていたが、当事者の姿が全然見えないと、すっかり興味を失ったように椅子に座り直して、親友を引っ張りながら言った。「どうせ見えないから、見なくてもいいよ。食べましょ」彼女にとって、今晩ここに来た一番重要な課題は食べることだから。「唯花、ここでちょっと待ってて、さっき誰が来たのか、ちょっとおばさんに聞いてくる。こんなに大勢が集まるって、まるで皇帝のご帰還じゃないの」内海唯花は適当に「うん」と相槌した。牧野明凛は一人でその場を離れた。 取ってきたものを全部食べ終わった内海唯花は空になった皿を持って立ち上がった。みんなが偉い人の所へ行っているうちに、自分は簡単に食べ物が取れて、他人の異様な視線も気にしなくてよかったのだ。結城理仁は入ってくると、まず今夜のパーティーを主催した社長と世間話をしていた。周りのボディーガード達はしっかり周囲の動きに注意を払っていた。なぜなら、この若旦那は女が近づいてくるのを好まなかったからだ。毎回こういう場面で彼らがいつも付いていくのは、不埒なことを考える人から若旦那を守るためだった。名高いボディーガードの身長も高いので、視線も他人より高く、遠くまで見える。本能的に会場を見回していると、女主人の姿を見たような気がした。結城理仁は正体を隠して海内唯花と結婚したのだが、周りのボディーガードは彼女のことを知っていた。そのため、最も内海唯花を知るのは結城おばあさんを除けば、このボディーガード達だった。内海唯花を見たボディーガードは最初、自分の見間違いだと思って、目を凝らしていたが、やっぱりその人は女主人様じゃないか。彼女は自分の夫が来てもかまわず、二つの皿を持ちながら、自分の好きなものを楽しく選んでいた。やがて、お皿が二つともいっぱいになると、その二皿分の料理を持ち、人に気づかれにくい隅っこのテーブルへ行った。 そして、何事もなかったかのように、食事を楽しんでいた。 ボディーガードは無言になった。「......」結城理仁が何人かの顔見知りの社長たちと話を済ませた後、そのボディーガードは隙を見て彼の傍へ来て、小声で報告した。「若
牧野明凛はグラスを口元まで持ち上げて、ワインを一口飲んだ。「小説の読みすぎじゃない?同名同姓の人なんかそこら辺にたくさんいるわよ。同姓というなら、京都の有名な大金持ちの苗字は鈴木だよ、世の中の鈴木さんは全部彼の親戚というわけ?」牧野明凛は笑った。「それもそうだね」「うちのはただのサラリーマンで、持ってる車も250万ぐらいのホンダ車よ。結城家の御曹司もそういう車にするの?もう、考えすぎだよ」内海唯花は玉の輿なんて考えたこともなかった。夢を見るのはいいのだが、見すぎるのはよくないと思っていた。「ところで、結城家の御曹司って、そんなに女性のことを拒絶してて、ホモなんじゃ?結婚してるの?」内海唯花はそのお坊ちゃんの顔には興味なかったが、彼がそんなに女性の接近を拒絶しているのは、高潔であるか、あるいは何か問題があるか、アッチ系なのかもしれないと思っていた。「結婚の話は聞いたことないわね。私たちは庶民とはいえ、結城家の当主が結婚したら、東京中、絶対大騒ぎになるよ。ネットといい、新聞といい、彼の結婚のニュースでもちきりになるわよ。それがないってことはつまりまだ独身だってことでしょ」牧野明凛はグラスを置いた。「そうだね、何か問題があるかもしれないよね。だって、そんなに立派な男性なら、恋人がいないなんておかしいわよ」「お金持ちの考えなんて、私たちには一生わからないかもよ。もう、食べましょうよ。食べ終わったらさっさと帰りましょ」「うん」と牧野明凛が答えてから、二人はまた遠慮なくご馳走を楽しんだ。多くの人が二人のことを見た。ある人はすぐ目をそらしたが、またある人は嫌そうな顔をして、あざ笑った。どこかのご令嬢が若い使用人を連れてきて、今までろくなものを食べたことがないみたいに、一晩中ずっと隅っこで飲み食いしているなんて、はしたない。それにしても、この二人よく食べたね!「明凛姉さん」牧野のおばさんの息子である金城琉生が近づいてきた。彼は牧野明凛より三歳年下で、幼いころから仲のよかった従弟だ。親に付き合って一週挨拶回りした後、母親は突然従姉の明凛のことを思い出すと、彼に頼んで探させた。「琉生、こっちに座って」牧野明凛は椅子を引いて、従弟を座らせた。内海唯花が笑顔を見せると、金城琉生は顔を少し赤く染めて、彼女にグラスをあげ、
牧野明凛は満足そうに食べ終ると、金城琉生の話を聞いて笑い出した。「琉生、おねえさんはね、逸材な男なんかに全然興味ないのよ。今晩唯花と一緒に来て、ただ視野を広げるついでに、ご馳走を楽しんでるの。さすが七つ星のホテル、食べ物が全部おいしかったよ。私たちはもう満足したわ」金城琉生は無言になった。「......」「もう満足したし遅いから、琉生、先に唯花と一緒に帰るね。おばさんに言っておいて」それを聞いた金城琉生は少し焦った。チラッと内海唯花のことを見ながら言った。「明凛姉さん、もう帰っちゃうの?パーティーはまだまだ続くんだ。まだそんな遅い時間じゃないじゃないか。十一時まで続くらしいよ」「私たち、明日も店を開かないといけないから、夜十一時までいられないよ」と内海唯花は答えた。金城琉生も二人につれて一緒に立ち上がった。「でも、店なら少しくらい遅れてもいいんじゃないんですか」内海唯花の隣について、彼は二人の姉をもう少し引き止めようとしていた。「そうはいかないよ。うちは毎日、登校下校塾帰りのラッシュ時間に稼いでるんだよ。朝を逃したら、結構な損なんだから」牧野明凛は自分の従弟の方を叩き、からかうように笑った。「琉生、一人で楽しんでね。まだまだ子供だけど、もし好きな子が見つかったら、恋愛はどういうものか、試してもいいんだよ」またチラッと内海唯花を見た金城琉生は顔を赤らめて、はにかんだように言った。「明凛姉さん!僕まだ大学を卒業したばかりだよ。何年か働いてから結婚のことを考えるつもりだ」海内唯花は何気なく言った。「男の子なんだから、そんなに焦らなくても。まだ二十二歳でしょう。二年でも経ってからまた考えてもいいんじゃない」金城琉生がうなずくと、彼女はまた懐かしそうに声をあげた。「琉生君に出会った時、まだまだ子供だったよね。あっという間にこんなに立派になっちゃって」「......」彼はまた黙ってしまった。姉たちを止められず、金城琉生はやむを得なく二人をホテルの外まで送り出した。 「明凛姉さん、車で来たんじゃなかった?」「おばさんが迎えの車を手配してくれたよ」牧野明凛は全然気にしてなかった。「唯花とタクシーで帰るから、琉生、戻っていいよ。おばさんに言っとくのを忘れないで。じゃ、先に帰るよ、楽しんできて」ホテルの入り口にもた
東京の商業界では、結城理仁に認められようものなら、これからチート人生が送れるに違いなかった。未来が保証されるのだ。金城夫妻が息子をパーティーに連れて来るのは、子供にここで友人を作ってもらい、将来のために後ろ盾を作っておいてもらいたいからだ。「金城さん、先程は?」「姉たちを送ってきたところです」金城琉生は結城理仁の言葉を待たず、先に自分が今何をしていたのか恭しく説明した。この場を好まず、ホテルのサービスも気にくわないと結城理仁に誤解されるのを恐れたのだ。スカイロイヤルホテル東京は結城家が所有するホテルの一つだからだ。結城理仁はうんと頷いて、金城琉生の前を通り過ぎた。ただ礼儀として目の前にいた金城琉生に挨拶を交わしたかのように。まだ状況をよく把握しきれない金城琉生が知ったのはただ、大勢の人に囲まれた結城理仁がここから離れると、自分がたちまち誰にも知られないモブになってしまったことだった。結城理仁はパーティーに出る時は、ほとんど少し顔を出すだけで、長居はしないので、みんなも慣れたことだった。どの短い時間に機会を逃さず結城理仁と商売の話ができた社長たちは思わずこっそり笑みを浮かべた。これはスピードの勝負だった。チャンスをつかんだ彼らはすっかり満足したのだ。まもなく、「世田谷XXX‐777」というナンバーがついたロールスロイスが数台のガード車に守られ、スカイロイヤルホテル東京から去っていた。「若旦那様、今日はどちらへ帰られますか」運転手は車を走らせながら尋ねた。結城理仁は腕時計を見て、まだ九時だと確認した。彼にとってこの時間はあまりにも早かった。暫く考えてから決めた。「トキワ・フラワーガーデンへ」畏まりましたとドライバーが応じた。 意外なことに、内海唯花より彼のほうが先に家に帰った。誰もいない、温かさも感じられない、誰もいない小さな家だ。結城理仁はソファに座り、退屈そうにテレビを見ながら、先にホテルを出てまだ帰ってこない妻を待っていた。ボディーガードはパーティーで撮った内海唯花の行動の写真を彼の携帯に送ってきた。結城理仁は一枚ずつゆっくりと見て、この女、何年もいい物をろくに食べたことがないかのようにずっと食べていた。という結論を出した。しかし、他の男を誘うよりは、隅っこでこっそり食べているほうがましだ
「うん」 結城理仁は低い声で返事した。内海唯花は透明なビニール袋を一つ持って、近づいてきた。「おいしい納豆を買ってきましたよ。食べますか」結城理仁は思わず暗い顔をして彼女を睨んでいた。パーティーでひたすら食べていたのに、あれでもまだ満足できなかったか。どんだけ食いしん坊なんだ!「匂いはきついかもしれませんが、食べれば食べるほどおいしく感じますよ。私が大好きだったあの男性も好きでしたよ」内海唯花はそのまま結城理仁の隣に座り、ビニールを開けた。納豆の匂いが漂ってくると、結城理仁は慣れない匂いにむせないように距離を取ろうと、さりげなく少し横へ体を動かした。「好きだった男?」「一万円札のあの方ですよ」「......」お金は結城理仁にとってただキャッシュカードに表示された無意味の数字の並べでしかなかった。「一口だけ食べてみませんか。本当においしいですよ。独特な匂いだけど、私は結構好きですよ」「いらない、自分で食べてろ。それに、ベランダで食べてくれないか?俺はこういう匂いが苦手なんだ」彼のへどが出そうな顔を見ると、内海唯花は慌てて袋をもって距離をとりながら心の中で呟いていた。収入が高い人は生活も普通の人と違って、拘っているんだねと。彼女はベランダで楽しんで残った納豆をいただいた。その後姿を部屋から見ていた結城理仁は顔色をコロコロ変えたが、結局何も言わなかった。人の好みはそれぞれだから。「結城さん、今晩残業がないなら、明日はちょっと早く起きてもらえませんか」ベランダで内海唯花は部屋にいる男に問いかけた。結城理仁はしばらく無言で、やや冷たく返事した。「なんだ?」もともと無愛想な人なのでしょう。だって初めて彼に出会った時から、いつも冷たい言葉遣いをしていたから。内海唯花は思わず心の中で彼のことをツッコんだ。しかし、ただ一時的に一緒に暮らすだけだから、それができなくなったら離婚すればいいだけの話だ。「車で市場の花屋まで送ってもらいたくて。鉢植えの花を買って、ベランダで育てたいんですが、車を出してくれたら助かります」結城理仁は何も言わなかった。「もし早く起きられないんでしたら、車を貸してくれるだけでもいいですから。自分でも行けますよ」「何時?」結城理仁は少し悩んだが、結局彼女に時間
姫華は唯花たちが引っ越し作業を終えてから、ようやく自分がそんなに面白いことを逃したのだと知ったのだった。だから彼女は明凛と唯花に不満を持っていた。明凛は唯花に姫華にも教えるよう言ったが、唯花が彼女はお嬢様だから家をめちゃくちゃにするという乱暴なシーンは見せたくないと思い姫華には伝えなかったのだ。確かに姫華は名家の令嬢であるが、神崎姫華だぞ。神崎姫華は星城の上流社会ではあまり評判が良くない。他人が彼女のことを横暴でわがまま、理屈が通じないというくらいなのだから、そんな彼女が家を壊すくらいのシーンで音を上げるとでも?逆に、彼女自身も機嫌が悪い時にはハチャメチャなことをしでかすというのに。「姉がもらうべき分はしっかりと財産分与させました。ただ内装費に関しては佐々木家が拒否したので、私たちが人を雇ってその内装を全て剥がしたんです」詩乃はそれを聞いて「それはそうすべきよ。どうして佐々木家においしい思いをさせる必要なんてあるかしら」と唯花たちの行動を当たり前だと言った。そして最後にまた残念そうにこう言った。「もし伯母さんが知っていれば、あなた達の家族として、大勢で彼らのところまで押しかけて内装費を意地でも出させてあげたものを。これは正当な権利よ」この時、唯花はふいに姫華の性格は完全に母親譲りなのだと悟った。「唯花ちゃん、もうちょっとしたらお店を閉めて私たちと一緒に神崎家に帰りましょう。家族みんなで食事をするの。そうだ、あなたの旦那さんはお時間があるのかしら?彼も一緒にいらっしゃいよ」唯花は「夫は今日出張に行ったばかりなんです。たぶん暫くの間帰ってきません。彼が帰ってきたら、一緒に詩乃伯母さんのお宅にお邪魔します」と返事した。「出張に行ってらっしゃるのね。なら、彼が帰って来てからお会いしましょう」詩乃はすぐに姪の夫に会えなくても特に気にしていなかった。彼女にとって、二人の姪のほうが重要だったからだ。今、彼女は姪を見つけることができて、姪二人にはこの神崎詩乃という後ろ盾もできた。ちょうど唯花に代わってその夫が頼りになる人物なのか見極めることができよう。「あなたのお姉さんは五時半にお仕事が終わるのよね?」「ええ」神崎夫人は時間を見て言った。「お姉さんはどこで働いていらっしゃるの?」「東グループです」神崎夫人は「そ
姫華は父親である神崎航と一緒に母親を気にかけていたので、理紗が忘れずにこの鑑定結果を持ってきたのだった。唯花は理紗から渡された鑑定結果を受け取って見た。彼女はその結果を見た後、少しの間沈黙してからそれをテーブルの上に置いた。「唯花ちゃん、あなたは私の姪よ。私のことは詩乃伯母さんって呼んでね」今世では妹と再会を果たすことはできなかったが、妹の娘である二人の姪を見つけることができただけでも、神崎詩乃(かんざき しの)にとっては一種の慰めになった。彼女は唯花の手をとり、自分のことを「詩乃伯母さん」と呼ばせた。「唯月ちゃんは?それから陽ちゃんも」神崎詩乃はもう一人の姪のことも忘れていなかった。「姉は昼にはここへは来ないんです。夕方五時半に退勤したら帰ってきますよ」唯花はそう説明して、明凛のほうを見た。明凛が陽を抱っこして近づいて来て、唯花が彼を抱っこした。「神崎おば様……」唯花がそう言うと、詩乃は言った。「唯花ちゃん、私のことは詩乃伯母さんって呼んでね。私はずっとあなた達を見つけられるのを夢見ていたのよ。ようやく見つけたんだから、そんな距離感のある言い方で呼ばれると寂しいわ」唯花は少し黙った後「詩乃伯母さん」と言い直した。DNA鑑定結果はもう出てきたのだ。彼女が神崎詩乃の血縁者であることが証明されたのだから、神崎夫人はまさに彼女の伯母にあたるのだ。本当にまるでドラマのようだ。詩乃は唯花に詩乃伯母さんと呼ばれて、目をまた赤くさせた。そして姫華がこの時急いで言った。「お母さんったら、もう泣かないで。陽ちゃんもいるのよ、お母さんが泣いたりしたら、陽ちゃんを驚かせちゃうでしょ」明凛と清水はみんなにお茶とフルーツを持ってやってきた。詩乃は陽を抱っこしたいと思っていたが、陽のほうはそれを嫌がり、背中を向けて唯花の首にしっかりと抱きついた。「陽ちゃん、こちらはおばあちゃんのお姉さんなのよ」詩乃は立ち上がって、陽をなだめようとした。「いらっしゃい、おばあちゃんが抱っこしてあげる、ね」しかし陽は彼女の手を振り払い「やだ、やだ、おばたんがいいの」と叫んだ。詩乃は陽が過剰な反応をしたのを見て、諦めるしかなかった。そして少し前の出来事を思い出し、彼女はまた容赦なくこう言った。「あの最低な一家が、陽ちゃんにショックを
数台の高級車が遠くからやって来て、星城高校の前を通り過ぎ、唯花の本屋の前に止まった。隣の高橋の店で暇だからおしゃべりをしていた結城おばあさんが、道のほうに目を向けると数台の高級車がやって来ていた。そしてすぐに顔をくるりと元の位置に戻し、わざと頭を低くした。あの数台の車から降りてきた人に見られないようにしたのだ。「唯花、唯花」姫華が車から降りて、唯花の名前を呼びながら店の中へと小走りに入ってきた。その時は隣の店でおしゃべりしていた結城おばあさんを全く気にも留めていなかった。その後ろの車から降りてきた神崎夫人の夫の神崎航がボロボロに泣いている妻を支えながら、娘の後ろに続いて店の中に入ってきた。理紗はボディーガードたちに入り口で待機するように伝え、それから彼女も店の中へと入ってきた。唯花は三分の一ほどビーズ細工のインコを作り終えたところで、姫華に呼ばれる声を聞き、その手を止めて姫華のほうへ視線を向けた。「姫華、来たのね。ご飯は食べた?もしまだなら……」その時、神崎夫人が夫に支えられて入ってきて、夫人が涙で顔を濡らしているのを見て、唯花は状況を理解した。神崎夫人はDNA鑑定の結果を手にしたのだ。神崎夫人のその顔を見れば、聞くまでもなく彼女と神崎夫人には血縁関係があるのだということがわかった。「唯花ちゃん――」神崎夫人は急ぎ足で、レジ台をぐるりを回って彼女のもとへとやって来て、唯花を懐に抱きしめ泣きながら言った。「伯母さんにもっと早く見つけさせてよ――」彼女はそれ以上他に言葉が出てこないらしく、ただ唯花を抱きしめて泣き続けた。唯花は彼女に慰める言葉をかけたかったが、自分もこの時何も言葉が出せなかった。「私の可哀想な妹――」神崎夫人は妹がすでに他界していることを思い、また大泣きした。唯花は彼女と一緒に涙を流した。明凛は陽を抱っこして清水と一緒に遠くからそれを見守っていた。陽は全くどういうことなのかわかっていない様子だった。姫華と理紗も目を真っ赤にさせていた。神崎航がやって来て、妻を唯花から離し、優しい声で慰めた。「泣かないで、姪っ子さんが見つかったんだ、良かったじゃないか。私たちは喜ぶべきだろう。そんなふうにずっと泣いてないで、ね」神崎夫人は夫に支えられて椅子に腰かけた。妹の不幸な境遇と、二人の
「内海のクソじじい、あんたはしっかり私から百二十万受け取っただろうが。現金であげただろう、あれは私がずっと貯めていたへそくりだったんだよ。あの金を受け取る時にあんたは唯花を説得してみせると豪語してたじゃないか。それがあんたは何もできずに、うちの息子はやっぱり唯月と離婚してしまったんだぞ。だからさっさと金を返すんだよ。じゃないと本気で警察に通報するわよ」佐々木母は内海じいさんがどうしても認めようとしないので、怒りで顔を真っ赤にさせていた。内海じいさんは冷たい顔で言った。「もし通報するってんなら、通報すりゃええだろ。俺がそんなことを怖がるとでも思ってんのか。俺はお前から金を受け取ってないし、もし受け取っていたとしてもそれが何だって言うんだ?それは唯月が結婚した時の結納金の補填だろう。うちの孫娘がお宅の息子と結婚する時に一円も出しゃあしなかったくせによ。結納金に代わって百万ちょいの補填だけで済んだんだぞ。お宅にも娘がいるだろ。その娘が結婚する時に一円も結納金を受け取らずにタダで娘を婿側に送ったのか?」佐々木母はそれを聞いて腹を立てて言った。「なにが結納金だ、お前は唯月を育ててきたのか?そうじゃないくせに結納金を受け取る資格があんたにあるとでも?彼らはもう離婚したってのに、馬鹿みたいにあんたらに結納金を今更補填してあげるわけないでしょうが。さっさと金を返すんだよ!」「金なんかねえ。命ならあるけどな。それでいいなら持って行くがいい」内海じいさんは、もはやこの世に何も恐れるものなど何もないといった様子で、佐々木母はあまりの怒りで彼に飛びかかって引き裂いてやりたいくらいだった。そこに英子が母親を引き留めた。「お母さん、あいつに触っちゃダメよ。あいつはあの年齢だし、床に寝転がりでもされちゃったら、私たちが責任を追及されちゃうわよ」「ああ、じいさんや、私はすごくきついよ。もう息もできないくらいさ。こいつらがここで大騒ぎしたせいで私まで気分が悪くなってきたみたいだ。死にそうだよ……」病床に寝ていたおばあさんが突然、気分が悪そうな様子で胸元を押さえて荒い呼吸をし始めた。内海じいさんはすぐにナースコールを押して、医者と看護師に来るように伝えた。そして、佐々木母たち三人に向って容赦なく言った。「もしうちのばあさんがお前らのせいで体調を悪化させた
唯花は笑って言った。「姫華が言ってたの、九条さんって情報一家らしいわ。彼と一緒にいたら、ありとあらゆる噂話が聞けるわよ。あなたって一番こういうのに興味があるでしょ。九条さんってまさにあなたのために生まれてきたみたいな人だわ、あなた達二人とってもお似合いだと思うけど」明凛「……」彼女が彼氏を探しているのは、結婚したいからなのか、それとも噂話を聞くためなのか。「そういえば、お姉さんの元旦那のあの一家がまた来たって?」明凛は急いで話題を変えた。親友に自分の噂話など提供したくないのだ。「お姉ちゃんと佐々木のクソ野郎が離婚して、お姉ちゃんがあの家から出て行ったでしょ。あいつらは待ってましたと言わんばかりに引っ越して来ようとしてたわけ。だけど、今は部屋を借りるかホテル暮らしするか、はたまた実家に帰るしかなくなったでしょ。あの一家は絶対市内で年越ししたいと思ってるはずよ。実家には帰らないでしょうね」佐々木一家は絶対に実家のご近所たちに、年越しは市内でするんだと言いふらしていたはずだ。だから、住む家がなくとも、彼ら一家は部屋を借りるまでしてでも、市内で正月を迎えようとするに決まっている。唯花は幽体離脱でもして佐々木家に向かい、彼らの様子を見てみたいくらいだった。「あの人たち、家の内装がなくなってめちゃくちゃになった部屋を見て、きっと大喜びして失神したことでしょうね」唯花はハハハと大笑いした。「そりゃそうね」唯花が今どんな状況なのか興味を持っている佐々木家はというと、この時、すでに内海じいさんがいる病院までやって来ていた。内海ばあさんは術後回復はなかなか順調で、もう少しすれば退院して家で休養できるのだった。佐々木母は娘とその婿を連れて病室に勢いよく入っていった。佐々木父は来たくなかったので、ホテルに残って三人の孫たちを見ていた。ただ佐々木父は恥をかきたくなかったのだ。「このクソじじい」佐々木母は病室に勢いよく入って来ると、大声でそう叫んだ。内海じいさんは彼女が娘とその婿を連れて入ってきたのを見て、不機嫌そうに眉をしかめた。彼の息子や孫たちはどこに行ったのだ?誰もこの狂ったクソババアを止めに入りやしないじゃないか。「これは親戚の佐々木さんじゃないですか、うちのばあさんはまだ病気なんで、静かにしてもら
「そうね、姫華にも彼女のプライドっていうものがあるんだもの。神崎家の娘は条件も整ってるから結婚に悩む必要もないし」神崎夫人は娘のことをやはりよく理解しているのだった。姫華が諦めると言えば、必ず諦めるのだから。その時、外から車の音が聞こえてきた。理紗が立ち上がり、外のほうへと歩いていき言った。「きっと姫華ちゃんが帰ってきたんです」彼女が外に出ると、やはり義妹が帰ってきたのだった。姫華は車を降りて義姉のほうへとやって来ると、キラキラと輝く笑顔を見せて言った。「お義姉さん、お母さんはまだ家にいる?」義妹が輝くような笑顔を送ってきたので、それを見た理紗は心がとても痛んだ。彼女は義妹がつらい気持ちを吐き出すために、このように無理して笑うより、泣いたほうが良いと考えていた。姫華がこんな笑顔を見せるたびに、彼女の心が傷ついているというのは明らかだからだ。ああ。自分を愛してくれない男を好きになってしまうのは、こんなにもつらいことなのだ。その相手が結婚したばかりだと知ったら、その苦しみはもっと深くなるだろう。「お義母さんは家にいるわよ。姫華ちゃん、あなた大丈夫?」「お義姉さんったら、そんなふうに見える?心配しないで、私は大丈夫だから。ただ過去と決別してきただけよ」姫華はもう吹っ切れたような言い方だったが、それでもあまり理仁のことについては話したくなかった。彼女は親しそうに義姉の手を引っ張って言った。「お義姉さん、さあ、中に入りましょうよ」姫華が帰って来ると、神崎夫人はさらに居ても立ってもいられなくなった。それで、神崎夫人は家族に付き添われて、鑑定機関へと赴いた。神崎夫人がとても緊張しているのと比べて、唯花のほうはとても落ち着いていた。彼女はレジの後ろでハンドメイドをしていた。陽と一緒に遊ぶおばあさんと清水をちらりと見て、明凛に言った。「うちの理仁さんは出張に行ったわ。ここ数日なにか面白いことがあって、私も参加できそうなら一声かけてよね」最近嫌なことが多すぎて、日々は張り詰めた空気に包まれていた。だから親友と一緒に遊んで、気分を上げる必要があるのだ。その時は姉と陽の二人も一緒に連れ出そう。明凛は笑って言った。「それなら、ショッピングか、美味しい物を食べるか、唯花が好きなことって他に何があるかしら?社交界のパ
それを聞いて姫華は笑った。笑ってはいたが、手で瞳に滲んだ涙を拭きとり顔をそむけて遠くの方を見つめていた。そして少ししてから、ようやくまた顔を理仁のほうへと向けて、落ち着いた表情になりまた笑って言った。「理仁、あなたからそんな言葉が聞けて、それだけでもよかったわ。何年もあなたに片思いしてた甲斐があったっていうものよ」彼女はおおらかにも理仁のほうへ手を差し出し、理仁も同じようにして彼女と握手を交わした。「理仁、奥さんと年を取るまで、いつまでも幸せでいてちょうだいね」「ありがとう、神崎さん」「あなた達が結婚式を挙げるなら、私も参加させてもらえたら嬉しいわ」理仁は手を引っ込め、優しく言った。「良い日取りを決めて、結婚式を挙げる時は、神崎社長と、君に招待状を送るよ」「じゃ、あなた達をお祝いできる日を楽しみにしているわね」姫華は笑って言った。「結城社長は忙しいでしょうから、貴重な時間の邪魔はもうしないわ。さようなら」彼女は理仁に手を振り、背中を向けて彼女のスポーツカーに乗り、すぐに結城グループの前から去っていった。さようなら、はじめて深く愛した人。今後は二度と彼女がここに現れることはない。彼女は傷を癒したら、また新たに自分の人生を歩んでいくのだ。理仁が車に戻ると、運転手は急いで車を出した。運転手はこの二人がまた揉めるのかと思っていたが、まさか神崎家の令嬢が祝福を送りに来るとは思わなかった。神崎お嬢様は正直に人を愛し、また憎み、そしてすぐに決断してスカッと自分の気持に区切りがつけられる性格の持ち主なのだ。運転手にしろ、ボディーガードたちにしろ、みんな神崎姫華への考えを改めた。少なくとも、彼女が引き続き彼に纏わりつくことはなくなったのだ。姫華は唯花のところに行こうと考えていたのだが、行く途中でまた考えを変えた。彼女は家に帰って母親と一緒にDNA鑑定機関に赴き、その結果を取りに行かなければならない。それで、姫華はUターンできるところで引き返し、家へとルート変更して車を走らせていった。家に到着した時には、すでに午前九時過ぎだった。神崎夫人は早く出かけて結果を知りたがっていたが、夫に「まだ早いだろう。そんなに焦らないで。結果が出るのは出るんだから、誰もそれを取って行ったりなんかしないって」と繰り返し諭して
電話を切った後、理仁は七瀬に指示を出した。「俺がいない間、しっかりと妻の警護にあたってくれ」「若旦那様、ご安心ください。私がしっかり若奥様をお守りしますので」若奥様はもともと強いお方だ。そんな彼女を警護する仕事なら楽勝だ。さらにさらに、ボーナスが倍に!七瀬はそれを考えただけで顔がほころんだ。これこそ若奥様とお近づきになる最大のメリットなのだ!「もし妻が何か困って助けが必要な時には、ばあちゃんに言えば解決方法を指示してくれるだろう。それか、辰巳に相談してくれてもいい」「若旦那様、ご安心を。若奥様が何かお困りになられたら、おばあ様がすぐにおわかりになることでしょう」おばあさんはもはや、神的存在だ。そんな彼女の孫たちは神の掌の上で泳ぐしかない。理仁は祖母の能力を考え、それ以上は何も言わなかった。それから、理仁にある意外な出来事が起こった。暫くの間、会社の前に現れなかった神崎姫華がこの日また現れたのだ。彼女は自分の赤いスポーツカーに寄りかかっていて、理仁の専用車の列がゆっくりと近づいてくるのを見ていた。それを見て運転手が言った。「若旦那様、神崎お嬢様がまたいらっしゃったようです」理仁は少し黙って、運転手に言いつけた。「神崎さんの前で車を止めてくれ」それを聞いた運転手と七瀬はとても意外だった。確かに神崎家の令嬢と若奥様は仲のいい友人同士である。しかし、今まで若旦那様は一度も神崎家の令嬢には優しくしたことはなかった。少しだけ彼が優しくしているのは牧野家のお嬢さんだ。彼女は若旦那様と交友関係にあるからだ。それに、牧野家のお嬢さんは若奥様と一緒に本屋を経営している。理仁にそう指示されて、運転手は言われた通りにした。姫華はその時どうしようか迷っていた。以前と同じように死ぬ気で彼の車を妨害しようかと思っていたところ、理仁が乗ったあのロールスロイスのほうから彼女の前に止まってくれた。車のドアが開き、理仁が車から降りてきた。暫くの間会っていなかったが、彼は彼女の瞳には依然として超絶な美形に映っていた。姫華は暫くじいっと彼に見惚れていたが、すぐに自分自身にそれを止めるよう言い聞かせた。彼はすでに他の女性の夫なのだから。「結城社長、あまり警戒しないで、今日私がここに来たのは、あなたに付き纏うためじゃないから
顔をあげて彼を暫く見つめ、唯花は仕方なく彼の首に手を回し、自分のほうへ引き寄せて甘いキスを彼に捧げた。理仁は妻のほうからキスをしてもらい、上機嫌になって、片手でスーツケースを引き、もう片方の手で唯花の手を繋いで一緒に家を出ていった。おばあさんは一階でこの二人を待っていた。その時、おばあさんと一緒にいて話をしていたのは七瀬だった。唯月の引っ越しを手伝った時、唯花は七瀬も手伝いに来てくれたことに気づき、彼はきちんと報酬がもらえれば、どんな仕事でも請け負うと言っていた。そして、また唯花に会った時、七瀬はもうわたわたと焦ることはなかった。正当な理由をようやく見つけて堂々とできるという感じだ。「結城さん、内海さん、おはようございます」七瀬のほうから挨拶をしてきた。唯花はそれに微笑んで、ついでに「お名前は?あの日、すっかり名刺をいただくのを忘れていました」と言った。七瀬はその時、素早く主人である理仁のほうをちらりと確認し、彼の表情が変わらないのを見て何も恐れることなく彼女に答えた。「私は七瀬と申します」そして、ポケットから一枚の紙を取り出して唯花に渡し、申し訳なさそうに言った。「家に帰って名刺がもう切れていることに気づいたんです。まだ印刷しに行っていないので、携帯番号を紙に書いておきました」唯花は彼の電話番号が書かれた紙を受け取り、自分の横にいる夫に言った。「七瀬さんがどんな仕事でも受けてくれるらしいわ。今後自分でできないことは七瀬さんにお願いしようと思って」こう言って理仁がまたヤキモチを焼き始めるのを阻止しようとしたのだ。理仁は低い声で言った。「七瀬さんはとても頼りになるからね。何か力仕事があれば、彼に頼むといい」七瀬は素直に笑った。「はい、その通りです。きちんとお金をいただければ、どんな仕事だっていたしますよ。ところで、結城さん、出張ですか?」理仁は「ええ」とひとこと言った。「では、私はこれで」七瀬は夫婦二人に挨拶をしてからおばあさんに手を振り、自然にその場を離れた。今回、若旦那様は出張に半分のボディーガードしか連れて行かない。その中に七瀬は含まれておらず、ここに残って若奥様の護衛をするのだった。自分の主人の出張について行けないことを七瀬は少しも残念には思っていなかった。なぜなら、女主人にゴマすりで